Tシャツで社会貢献
日時: 2009年03月25日 13:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
日本でこそ創りえるもの
Tシャツといえば中国など海外で生産した安価なものが溢れる時代。国内のメーカーがほとんど淘汰された中で、「日本でこそ創りえる」Tシャツにこだわって、今も元気に国内工場で作り続けているのが、国産Tシャツメーカーの草分けでもある東京都墨田区の久米繊維工業です。
力を入れているのが社会貢献。Tシャツ独創企業として「世界一の環境品質・文化品質」を理念に掲げ、農薬で地球を汚さないオーガニック・コットン製のTシャツをグリーン電力で作り、これに賛同するアーチストの作品に仕上げたり、NPO法人「砂浜美術館」が毎年開催する「Tシャツアート展」の出品作品に製作協力しています。一方で、インターネット経営をいち早く取り入れて、メルマガやブログで情報発信し続けています。
「繊維は古い業種ですので、インターネットなりエコロジーなり、新しいことをどんどん取り入れてきました。切り口はまだまだたくさんありますよ」と三代目の久米信行社長は語ります。『メール道』『ブログ道』の著者であり、2005年経済産業省の「IT経営百選」最優秀賞を受賞している久米社長は、その道では超有名人。明治大学商学部で「ベンチャービジネス論/起業プランニング論」の講師を務め、経営者会報や日経BPなど連載も多数抱えています。
和綿再生プロジェクト
日本でこそ創りえるTシャツへのこだわりは2001年、絶滅寸前だった日本固有の和綿を再生するプロジェクトに発展します。ミュージシャンの坂本龍一さんを中心に環境保護を訴える「artists’ power」が立ち上がった際、出合ったエコロジーオンラインの上岡裕さんと意気投合し、有機農法一筋の町田武士さんといっしょに、「究極の有機和綿Tシャツ」を作ろうということになったのです。スタート時に入手できた和綿の種はわずか40粒。手探りの状態で試行錯誤を繰り返し、ボランティアの協力を得ながら毎年収穫量を増やしていきました。社員や家族も代わる代わる手入れや収穫の手伝いに加わりました。
5年をかけて収穫した綿がやっと20kgになりました。小ロット生産で技術的にも手間がかかるにも関わらず、糸に紡ぐのは大正紡績が、生地に編むのはカネキチ工業が協力してくれたおかげで、90枚のTシャツに仕立てることができました。このTシャツは2007年、環境保護イベントLive EarthのJAPAN公式Tシャツに採用され、チャリティーオークションにかけられました。
Cool Japan
フランスの高級百貨店ボンマルシェでは、70歳の少女漫画家、花村えい子さんがデザインし同社が作ったTシャツが100ユーロ(約1万3200円)を超える値段で売られています。久米社長がインターネットと縁者を通じてたまたま花村さんの娘さんと知り合い、ルーブル美術館SNBA展で特別賞を受賞した花村えい子さんに土産のギフト用にと特製Tシャツをプレゼントしました。それを、雑誌『ELLE』の人気ライターが絶賛したことがきっかけでボンマルシェから依頼が来たそうです。まさにCool Japanです。
「日本の大手流通は今まで主に国内中心でやっていたので、まさか自分たちのものが海外に売れる、しかもユニクロの10倍以上で売れるとは思っていないようです。でも気が付いたら海外の人から見たら、そういう価値が日本製にはあるということなんです」と久米社長。
同社が作ったこだわりのTシャツは、海外で好評です。桐箱に入った7000円のTシャツを富士フィルムと共同で製作し、空港の税関の外で売っています。主に買うのが中国からの観光客。日本語と中国語が話せる販売員も主に中国の人。「日本製はいいですよ」と中国の若い販売員が、中国のお金持ちにむけて、日本製Tシャツを売っている時代なのです。
修羅場の連続
常に時代を先取りするように、新しいことに取り組む久米社長。その社長になるまでの経歴は、修羅場の連続だったそうです。大学時代に中国経済改革を学んでいた久米社長は、発展前夜の中国を二度訪ね、中国の繊維業界が日本のような発展を、日本よりも早いスピードで達成することを確信したと言います。父親が経営する会社をいつかは継ぐことを自覚していた久米さんは、会社にとって厳しい時代が来ることを予期して、あえて違う業界で経験を積む選択をします。
「アパレルや商社に入っても、予定調和の今までの仕組みしか考えられなかったと思う。むしろ激動の業界に行って勉強しようと思ったのです。言わば修行ですね」
86年、大学卒業後ゲーム会社に入ると、ファミコンソフトなら何でも売れていた時代は終わっていて、連日飛び込みセールスに走りました。人がどんどん辞めていくので、夜はゲーム開発をすることになり、ファミコンソフト「松本亨の株式必勝学」を企画開発しました。その後、証券会社に入ると、バブルが崩壊して暴落を経験。しかしまだ景気が良かった91年、責任者をしていた「相続診断システムプロジェクト」が一段落したところで、経営者の直感からか、父親に呼び戻されます。「これからすごく景気が悪くなる。下落局面で経営者が何をすべきか教えるから、すぐに帰って来い」と。
父親の会社に入ってからも試練が続きます。不景気になるとバブルに浮かれた放漫経営がたたって倒産する会社が続出、身を持って与信管理の重要さを学びます。不動産価格の下落で担保割れを起こして借金返済を迫られる中、安価な輸入製品の激増で売上は激減していきます。新たな顧客開拓のためには、新しいことをやらざるをえなかった、と久米さんは言います。
不動産の整理にメドが立ち、底が見えたのが2005年。父親とこれからを話し合い、正直もう仕事を小さくしてしまうアイディアもあったそうですが、「私としてはもう一度、第二創業したい。社長は10年やる」と久米さんは決めて、久米繊維工業の社長としてスタートしました。
社会貢献で社員が元気になる
先代の頃からずっと24時間テレビのTシャツを30年以上作っています。「ただTシャツ作るというより、何かみんなの役に立ち泣けるようなことをすると、力が集まるということを、私たちは前から知っていたわけです」と久米社長。「社会貢献というのは、世のためだけではなく、社員のためになるということが分かりました」と言います。
例えばTシャツワークショップ。親子で楽しむTシャツお絵かきワークショップをやると、皆楽しくてしょうがない。笑顔に囲まれ、皆が楽しそうに自分のTシャツを作った後でニコニコと「ありがとう」と言ってくれると、手伝った社員は嬉しいと思うわけです。久米社長は、「ありがとうはキーワードですね。自分たちのTシャツを生かして、楽しい、ありがとうと言われると、社員は何を伝えるべきかがわかって、また元気が出てくるのです」と言います。
いい師匠と出会えたから
IT経営や社会貢献に取り組むようになったのは、「いい師匠に恵まれたから」と久米社長は言います。「それと、おっちょこちょいなので師匠に言われたことをすぐやるようにした」。インターネットを始めたきっかけは、証券会社で「相続診断のシステム」を作っていた富士通システム総研の部長、関順二さんがニフティに転籍になり、オンラインショップをやってみないか、と誘われたから。
今のオーガニックコットンも、最初は何も知らなかったのが、ある日新聞記事で有機栽培のアート展があると知って行って、現オーガニックコットン協会の副理事長、渡邊智恵子さんと出合ったから。
「後は師匠と仰いで、言われたことをすぐやる。自分で先見の明があるというより、先見の明がある人といいご縁があったのです」と久米社長は言います。しかし、言われてすぐに従う謙虚さと素直さが久米社長に備わっているから、できたことでしょう。ちなみに久米社長は最近、著書『考えすぎて動けない人のための「すぐやる!」技術 』を出し、ベストセラーになっています。
墨田区の街興し
2011年に世界最高610mの電波塔タワーが地元の墨田区に誕生します。久米社長は、東京商工会議所「墨田ブランドアップ推進会議」委員、社団法人墨田区観光協会理事として、地域振興とブランド作りに協力しているほか、色々なプランを提言しています。まず、タワーに「魂を入れる」ために、100年後の2111年の子孫に残したいメッセージや写真などを寄付金と一緒に世界中から募集して、タワーの内階段に貼って年に一度ご開帳をしようと提言しています。また、葛飾北斎誕生の地として、2012年に完成する北斎美術館に合わせて、「21世紀の北斎を探せ」という世界的なアートコンペを毎年開催。町工場の1社1品活動を組み合わせて地域ブランド製品を創造します。また、北斎の娘を描きながら、「江戸文化=エコロジーとコミュニティ」を伝える映画製作なども計画して、アートとものづくりの中心地にしたいと考えています。さらに、墨田区を愛するバイリンガルのブロガーを募集して観光大使になってもらい、相撲の本拠地、江戸前寿司発祥の地、向島料亭街、隅田川の桜並木といった観光資源はもちろん、商店街や町工場とそこで活躍する人の面白さも合わせて、それぞれの国の視点で発信してもらう計画です。世界中から観光客のみならず、アーティストやバイヤーも呼び込んで、地元の人がうるおい、誰もが誇りに思える街にしたい、これが久米社長の思いです。
地元の世話役を引き受けるのは下町では昔からやってきたこと。だから久米社長も自然体、「社会貢献なんて言わなくても、みんなのためにやるのは当たり前なんですよ」と楽しんでいるように見えます。
